これぞ歴史学の学び方「歴史をみる眼」
「歴史を学ぶ上で、その前提になる土台が欲しい」 と思い購入。 思いの外、素晴らしい書でした。 歴史を学ぶ予定が、 「帰着点が哲学になる」という「学問あるある」が飛び出したので、 最後はニンマリしてしまいました。 さて、その肝心の歴史を学ぶ土台ですが、 「こちらから何を歴史に問うか」を出発点にされているので、 自然、主観と客観の問題となり、 また、過去は現在とつながり、現在は未来につながっているので、 時間の問題に繋がり、 最終的に歴史の観点の成否は将来にならねば解らない、 故に「永遠の相のにもとに」というスピノザの言葉で本書は幕を閉じます。 学生時代の暗記主体の勉強では見えない視点ですね。 本来の勉強、つまり、学問とはこうしたもの。 まず「自分から歴史への問いかけ」から始まります。 中学生なら「歴史への問いかけ?」と不思議に感じることでしょう。 歴史を顧みるのは、 いまの問題の解決の手がかりを求めたいがためである、 と筆者は述べておられます。 私もまったくその通りだと思います。 現今のIT革命による職業淘汰の問題は、 形は違えど産業革命の時代のコピーです。 そこで産業革命の時代を振り返り、 ヒントを探りたくなるのが人情ってもんです。 主観的に歴史に問いかける。 でも、そのぶつかる歴史は本当に正しいの? 言い換えれば、客観的な検証は大丈夫なの? という「歴史の安全性の問題」に客観性が絡んできます。 ここが歴史学の難しさであるようです。 歴史学者はそこに心を砕いて、 歴史の正しさを得るために、 方法論としての客観性を担保しながら日々研究されておられます。 そして、その妥当性は未来が証してくれます。 こんなお話を、 科学とのアナロジー(類推)を用いて、 かなり、かなり、かみ砕いて説明してくださいます。 元々がラジオで放送されたものなので、 専門家ではなく一般の人々に向けた歴史書になっています。 個別具体的な歴史イベントのお話ではなく、 包括的な歴史そのものの扱い方を知りたい方は 是非、手にとってみてください。 「歴史をみる眼」が変わること請け合いです。 堀米庸三著 日本放送出版協会 1964年